2009年2月15日日曜日

アートプロジェクトリテラシー


自分が越後妻有や、AAFをはじめ様々地域系アートプロジェクト※1に関わっていて、しっくりこなかったことがあります。

というのも、いつも色々な議論がから回ったり、評論・評価がズレテいる気がしたからです。一例として、ローカルな関係や、意味を中心に含んでいるアート活動を、西洋的アートの文脈で語ることへの疑問でした。

そんなとき、日頃お世話になっている現代美術製作所の曽我さんが以前言った言葉、

「地域でおこなわれているアートの現場や、その地域では、アートリテラシー※2が足りないのでなく、アートプロジェクトリテラシーが足りない」

この言葉は色々と意味を含む言葉だと思うのですが、この言葉に触発されて考えたのがこの文章です。(今のアート業界への意見であるので、興味ない人は流してください)


大きく、美術の世界を二分すると、ファインアート・ハイアート※3 などの純粋なアートと、デザイン・建築などの商業とリンクしたものとに別れています。
今、色々な地域で行われているアートプロジェクトや、アートイベントは、基本的にアート(ファインアート)の文脈で語られていますが、そもそも、いわゆるファインアートとアートプロジェクトは別モノではないのか。


ファインアートは、独自で存在するからこの意味があります。
美術館やギャラリーなど外界から遮断され、白い壁に囲まれた空間(意味が存在してないと設定されている空間)に作品が存在します。
だから、その場には作品以外に外的要素がない(実際は美術館という要素や美術史の文脈など多数ある)から、純粋に作者の作品と対峙できるし、その作品がどんな意味をもっていても(モラルや常識を超えて)問題なく存在できます。※4

それに対し、デザイン・建築は、様々な要素をもっていて、経済とリンクするし、実際に使用される使用物でもあるゆえに、様々な制約の中、今現在意味のあるモノを作り出そうとしています。

これらと比較した場合、地域で行われるアートプロジェクトは、どちらかというとデザイン・建築に近いのではないでしょうか。
というのも、あからさまに外的な要素が存在しているからです。
それは、まず背景となる地域の場所性・歴史性、関わる人との関係性、意味性などがあります。

すでにこれらの時点で、アーティストが特定の空間の中で純粋に個人の個人的な感覚を社会に問うという的な、ファインアートの要素を超えていて、ファインアートとしては、煩わしい要素が存在しています。
だから、ファインの中にアートプロジェクトがあるという概念は違うのではないでしょうか。



この様に、性質の違う存在なので、評価基準も違ってしかるべきではないでしょうか。

自分が考えるに、ファインは作品の強度で評価されます。(よくこういう言い方をしますが、要するにそれまでの流れによらずに、個人的な表現のこだわりの強さ、もしくは社会的・時代的に合致する強さだと自分は考えています)
もしくは、作品として、美学的、美術的文脈のなかで評論の中で評価を得ていきます。

ただ、アートプロジェクトの評価は、それだけでは成立しないのではと思っています。自分として考えているのは「そのプロジェクトで『新しい』物語を生んだかどうか」(この『新しい』とは目新しいという意味でなく、そのプロジェクトを行う前には、その場に存在しなかった価値観が生まれているか?という意味)だと考えます。

これは、面白いプロジェクトほど、そのプロジェクトが意図しなかったドラマが生まれてきたという事例を様々に見て、聞いている中からのこと。※5


ただ、この図に書いた三つのジャンルがバラバラかというとそうでもなく、高いレベルは同じことが起こりえます。デザイナーや建築家は経済だけでなく、もちろん社会のことを考えていますし、すぐれたファインアーティストの作品は社会に対して影響力を与えます。

また、特に建築家の中には公園や集合住宅でコミュニティーの再生などにとりかかっているし、ファインアーティストが地域アートプロジェクトで様々なドラマを生んでいます。

しかし、ここで自分が言いたいのは、一回定義や評価基準を分けた上で、アーティストやデザイナーは自由にジャンルを横断すればいいと思っています。


とは言うのものの、研究・分析の上では何らかの文脈や、データー的、言語的、論理的アプローチがないと、現場で起きたことがただ消えてしまうので、アートプロジェクトは、とりあえず過去のアートの文脈から外れてるものとして、新しい文脈、視点からの評価が必要ではないでしょうか。
近年、アート評論や芸術学以外の、まちづくりの研究者、社会学や文化人類学の学者や学生のリサーチが始まっているので、そちらサイドからのレポートを期待したいし、それらの学問と芸術学の融合などを期待したい。※6


様々なアートの場の議論でいつも混乱を生む「アート」と「アートプロジェクト」。
アートの議論ではアートプロジェクトは民意に媚びて強度がない』的な意見。『アートプロジェクトの場では、アートはオタク的、マニアの楽しみであって、実社会になんの寄与もしていない』的な意見がある。

これらは、「商業者が精神科医に何も具体的なモノも売らないのにサギではないか」いと問いただしてるのに対して、「精神科医が商業者に対して、売上売上と、お金中心で、人のありかたとしてどうなのか」問いただすのと似て、そもそもの成り立ち、意図が違うのに互いを勝手に敵視して批判しているようなものではないでしょうか?



個人的なすぐれた表現は、社会に影響力を与える」し、「社会に確固たる意志を持ってプロジェクトを企画・実行しようと試行錯誤すると、プロジェクトがアートとしての強度をもつ」のではないでしょうか。




※1アートプロジェクト アートを作品⇔鑑賞という関係だけでなく、この名前の元、様々な活動が行われている。特徴としては美術館やギャラリーを飛び出して、なんらかの目的・意図をもち行われるアート活動が多い。

※2アートリテラシー 
詳しい本もあるが、アート関係者じゃない下の人たちの文章はわかりやすい
自分の言葉で表現する
1999年だが、この後どんな研究をしたのか気になる
松下政経塾 1999年レポート

※3 ファインアート 絵画・彫刻・コンテンポラリーアートなど
   長いので、詳しくはとりあえずwiki

※4 日本では公的な美術館が多く、公的という意味で表現が制限されているのは悲しい。アーティストも美術館関係者も空気読みすぎでないか。


※5 もっとも面白い例は藤浩志のかえっこプロジェクト。あれを以前美術イベントで知っていた当時は気にしなかったが、ある商店街で地味に続きながらも地域のお母さんとお子さんにおもちゃという概念を変えていた時にその真髄を知った気がしました。最近のサミットなど、プロジェクト以外の派生状況はとても素晴らしく、長くやっていて目新しくないけど、もっとかえっこは語られてもいいと思う。

また、自分の体験としては、色々問題もあった墨田区のスペースRICE+。そのどたばた騒ぎを横目に面白そうだなと見ていた人が、今、素晴らしいコミュニティカフェ(東向島珈琲店)を創り上げていて、それだけでも、RICE+のプロジェクトの意味はあったのか?とも思っています。


※6 越後妻有を事例として、美学からでなく、アートプロジェクトのもたらす公益性を客観的、科学的に分析した「住民によるアートプロジェクトの評価とその社会的要因 -大地の芸術祭 妻有トリエンナーレを事例として-」(勝村文子(旧姓 松本)  文化経済学会 2008年)は素晴らしい取り組みです。

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